「土への愛着」「唖娘」を入力した。

「土への愛着」と「唖娘」を入力した。
「土への愛着」は筋自体は平凡な水準にも思うのだが、登場人物の作男の老爺の、「私の親も、その親も、その親の親も、丹精して肥やして来た土でございます。――私が眼をつぶると、田の畦《あぜ》一本一本、畑の土くれの一つ一つもはっきり浮かんで来ます。――私は毎年春先になって、物の芽が育つ頃になると、朝から晩まで畑に出ては、両手で黒い土を掴《つか》んで、揉《も》みほぐしたり、叩いたり、撫《な》でたり、嗅いだり、時々は嘗《な》めてもみております。私一家の汗を何百年のあいだ吸い込んだ土を、どうして人様にやられるものでしょう。」
という文章は、なかなか読ませる。土を愛する農民の心情をうたいあげる見事な文章なのである。
作者もこのフレーズが我ながら気に入ったようで、「自分の手に還った土を、揉みほぐしたり、撫でたり、叩いたり、嘗《な》めたり、愛撫の限りを尽しながら――。」という文章で作品を結んでいるほどだ。
「唖娘」は、結果的には八五郎の手柄話になるのだが、話の途中の八五郎の言動が、あまりにも馬鹿馬鹿しいので、少なからず苛立ちさえ感じる。こういう苛立たしさはホームズ物のワトソンの逸話にも共通しているのだが、あまりに度を過ぎると、やはり筋としては無理があり過ぎてしまうように思う。

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